株式投資とその周辺

初心者の勉強記録です

雨天、日直

 休日になると天気がすぐれない。雨とわかっている日に早起きして紅葉を見に山に行くのも気が進まない。平日は気持ちいい秋晴れを病院の窓から眺めて誰のためになっているのか分からない仕事をしている。

 後期研修医になってからも病院を転々としている。今は4つめの病院で、家庭医療専門医に必要な小病院での研修を兼ねて仕事をしている。2020年4月に病院家庭医という本が出版された。患者のcommon diseaseへの一般的な対応をする小病院のセッティングで仕事をする人々という感じだと思う。家庭医・プライマリケア医などというと、診療所でかかりつけ医をやっている人をイメージしがちだけれど、実際のところ病院家庭医って結構いるよね、ということで作られた書籍らしい。

 ただ、小病院でかかりつけ医として勤務しているのは多くの場合(開業医と同様に)一線を退いた中年以降の医師が多い印象で、大抵は自身が所謂病院家庭医であるという自覚はないだろうし、体系的にプライマリケアを学ぶ機会に恵まれなかった人々で、求められるがままに何となく業務をこなしているのだろうし、またそこに専門性があることなど考えたこともなさそうである。

 実際に私たちが育成される大学病院でもそのあたりの領域の講義を受けた機会はないし、診療所研修をした記憶もない。大学病院の医局に所属している人しか接することはあまりないし、開業医は教授の変わったタイミングとかで後腐れなく脱医局した専門医が何となくやっているくらいの印象しかなかった。

 正常な身体の生理機能を学習し、その一部が破綻したことによる病態生理を知って、その解除方法を勉強するというのが学生時代の授業である。これはかなり自然な流れのようであるが、我々のその後の仕事がその解除可能な原因を解除することにあるというのが暗黙の了解であるために、必然的にここでは「何らかの解除可能な原因をもつ疾患」の学習が重要視されていることは実際に勤務した後にならないとなかなか意識されないように思う。

 実際のところ、3次救急病院にいてもやってくるのは(超)高齢者が多い。救急外来で限界まで具合の悪くなっている超高齢者において解除可能な病態なんてほとんど存在していない。(もちろん誤嚥の原因が過剰に盛られた眠剤であったり、心不全の増悪の原因が認知症独居→怠薬だったりすれば調整のやりようがあるかもしれない。)ただ、多くに場合に超高齢者であれば本当に必要なのは蘇生よりそれ以前の外来で行われるべきだったACPだ。原因は加齢を含む様々なこれまでの生活のリスク因子の積み重ねの結果でしかないことが多く、その場でできることは看取りに向けたソフトランディングについて考えることだけで、手技に喜びを感じられるうちくらいしかやりがいを見つけられなくなってしまう。

 学年が上がるにつれて、救急外来と病棟の往復から、外来のセッティングが増えていくことは自分にとっては良いことだった。救急外来で家族にとっては重大だけれど我々にとっては何の新鮮味もなければ何の未来もない認知症の終末期に飯が食えない時にどうするのかといった話を繰り返したり、病棟で何のために生きているのか分からないミイラみたいな体型のCVC-TPNで生き続け時に喀痰におぼれて定期的に発熱する高齢者を診療したりすることにはほとんど意義を感じられないし、むしろ社会悪であるとすら思っている。誰かがやらなくてはいけないから、やるほかないけれど、誰の幸せにもならない仕事に国のお金と若い地方の労働力をじゃぶじゃぶ浪費しているという確信があった、今も多少はある。

 結局のところ、それらは外来マネジメントの失敗例がメインであったからだと思う。かかりつけ病院でありながら、カルテにサマリーがない。認知症があるのに食事がとれない時に対応について一度も考える場を設定していない。90代になっても寝たきりでも、どこで亡くなりたいのかといった話に触れられていない。そういった哀れな者たちばかりを見る機会が多いからだ。

 

 解除可能な原因がないこと、根本的な解決が図れないことよりも診療する側にとっての苦痛というのは、できたはずだったことができなかった状態で放置されてるという認識にある。

 今日は日直なので、雨だけれどもどうせ外出もできないので気にならない。雨であることを嘆いても天気は変わらないので、晴れの日のうちに有給をとることについて考えるべきなのだ。そういえば先日、ようやく晴れの日曜日の休日となったため、紅葉を見に出かけた。たまにはお出かけしないと、心がふさぎ込んでしまう。